2007/08/21(火)
内定辞退で一騒動』
寝ていても新しい仕事でのマイナスイメージしか思い浮かばなかった。
夢なのか頭で思考しているのかもわからなかったが、
全然寝た気がしなかった。精神は激しく動揺していた。
時計を見るとまだ1時半だった。暑くて仕方がなかったが、
寝ないと明日からの仕事が辛くなると思い、何度も睡眠を心がけた。
でもうまく寝付けなかった。いや、もしかしたら寝ていたのかもしれない。
それでも眠れない自分がどこかにいて、非常にマズイ状態。
はっきりとそれを自覚したのは4時半。
僕は何かの拍子でガバっと布団を跳ね上げた。
激しい動悸と滝のように流れる汗。
横で寝ていた彼女もビックリして飛び起きた。
「大丈夫?」「さっきも大声で”バカ!”って寝言で言ってたけど」
僕の肉体は完全に精神に支配されていた。
それからというもの、まったく眠れず、居間で扇風機にあたっていた。
初日からこれだと先が思いやられた。
つまり僕はこの症状とも戦いながら、なおかつ睡眠不足とも戦い、
そして過酷な労働を強いられるのだ。
絶対に無理だ。
僕は即座に判断した。
そして唐突に採用辞退を申し出ることを決めた。
正式には今日からの採用だ。まだ間に合う。
僕は弱いのかもしれないが、自信が全くなかった。
彼女が心配して居間に来てくれて、優しい言葉をかけてくれた。
これから仕事の彼女が6時半まで一緒に寄り添ってくれていた。

僕は再び眠ることができず、外の空気を吸おうと思って、
出す予定だったゴミを片手に階下におりて行った。
ポロシャツにジーパンという着の身着のまま、
自転車に乗って、公園のベンチで思いをめぐらせた。
ここで辞退するとどうなるのか、僕に道は残されているのか。
わけがわからなかった。
自分で自分をこれほどまでに情けないと思ったことはなかった。
せっかく決まった再就職を自ら辞退しているのだ。
それも自分の弱さが招いた精神状態のせいで。
気がつくと実家に来ていた。7時半頃だった。
黙って鍵を開けて中に入ると、妹が歯を磨いていた。
「ごめん、朝から迷惑ばかりかけて・・・」
「やっぱり体力的に働くのは無理だ」
僕はそう言いながら実家の中に入り、ひとしきり泣いた。
妹が「一睡もしていないんでしょ? 眠りなさい」と、
優しい言葉をかけてくれた。母も甥も心配そうな顔つきだ。
泣きながら家族が朝の用意をしているのを感じていた。
誰も僕を責めたりしない。なじったりしない。
やはりここに逃げ込むのはいけないことなのか。
でも僕には実家しか行くべきところはなかった。

「すごい顔をしてる」と妹が言うように、
目の下にはクマができて、髭は生えて、顔も歯も磨かず、
もちろんシャワーにも入っていないので髪の毛もボサボサだった。
そんな状態で9時まで妹らと過ごした。
実家を出る前に妹に念を押された。
「会社に断りに行った帰りには必ずここに寄ること」
「もし一人で行けなかったら父に相談すること」
どうやら妹は僕が自殺をすると思っているらしかった。
でも僕には悲しいかなその気力もなかった。
ただすぐにでも辞意を伝えなくてはいけないという思いだけで
僕は動いていた。
自転車に乗っていると父からの電話。
「乗せて行くから」
「いや、一人で行くから大丈夫」
「変なことを考えるなよ!」
「大丈夫」
妹の差し金で父も地下鉄への飛び込みを心配しているようだった。

9時に一旦自宅に戻り、バナナを1本食べて、歯だけを磨いて
すぐさま地下鉄に乗って、新しい会社へと向かった。
さすがに会社へ行く前に飛び込むことはできない。
9時50分には会社に着いたが、誰もいなかった。
ドアには鍵がかかっていて、僕は仕方なく総務の女性の出社を
エレベーター前の階段に座って待つことにした。
いったいいつ誰が出社する予定なのかもわからなかった。
もしかすると僕の雇用保険をかけにいっているのかもしれなかった。
それだけは何としても阻止したかった。
今週の金曜、24日には失業保険が出るのだ。そこだけは何故か狡猾だった。

階段は息苦しく、頭は朦朧としていた。
寝不足もあったし、緊張もあった。
総務の女性が出社したのは11時45分。
僕は2時間近く階段で待っていたことになる。
事情を説明し、空調の効き過ぎた社内で待つことに。
書類はまだ何も手つかずのままで、先にそれらを戻してもらった。
もちろんその中には労働契約書もあったし、
父にお願いして押印署名してもらった身元保証書もあった。
昨日渡した年金手帳などの重要書類もあった。
総務の女性はすぐに社長に連絡をとってくれ、1時には社長がやってきた。
僕は思いの丈をぶちまけた。
しかし精神状態のことだけは最後まで言うまいと決めていた。
以前からそうなのだが、会社を辞めることに関しては
それほどの緊張を強いられず、スラスラと言葉が口から出て来る。
しかし社長は納得しなかった。
僕の「体力に自信がない」という理屈は、
「まだ仕事もしていないのに」の一言で片付けられた。
そして社長はいろいろな話をしながら僕に慰留の説得をこころみた。

社長は明らかに動揺していた。
僕はまさにこの会社にとっては、喉から手が出るほど欲しかった
即戦力の人材であり、そのせいで高く売れる商品だったからだ。
社長にとっては起死回生の出会いであり、
だからこそ年齢オーバーも気にせず、入社を決めたのだと言う。
しかし僕にはその論理は僕をただの一商品としか見ていないようにしか
思えなかったし、そんな競争には巻き込まれたくもなかった。
しかしながら社長は本当にいろいろな話を聞かせてくれた。
途中で何度も「もう1回考え直してみようかな」と思った瞬間があった。
ただそれは社長の墓穴を掘った話ですぐに消されることになった。
社長交代劇について、経済的事情などの話は辞退に十分な材料だった。
2時から打合せがあるので少し待っていてくれないか、
社長はそう言い残して社を出て行き、僕はそのおかげでまたもや
1時間半も冷房の真下で待たされることになった。
さすがに眠かったし、お腹もすいて来た。
家族に送ってもらわなくてよかった。
きっとあの感じでは僕の自殺を心配して帰りも送ろうと、
どこかで待機していたことだろう。
僕自身もこんなに長い時間説得されるとは思わなかった。
こんなことは僕が大学の体育会系の部活動を辞めるとき以来だ。

4時に社長と僕はレストランで遅い昼食を共にした。
僕はすでに辞意を固めていたのだけれど、
社長のことは人間的に好きになっていた。
ものすごくいい人で、正直な人だった。
社員はそういうところに惹かれるのだろうとも思った。
だから僕は他人のまま別れることもできた。
でも僕をせっかく高く評価してくれた唯一の人だったし、
話を聞く限りでは僕より1つ年下だったことも判明して、
同年代の共感はどこかにはあった。
食事の最中には、もう友人同士の関係のようになっていた。
男女関係のことや家族のことなど、
食事中の会話のほとんどは社長の愚痴に終始していた。
「この会社のことをトラウマにしないでほしい」
そんなことも終盤に社長は口にしていた。
そして5時、何故か握手までして別れた。
「何かご一緒できればいいですね」という言葉が最後だった。

帰りの地下鉄の駅に向かっている最中に携帯電話が鳴った。
母からだった。
電話に出ると母は半分泣きながら「大丈夫?」と言った。
きっと朝から僕のことをずっと心配してくれていたのだ。
「大丈夫。もうすぐ地下鉄に乗るから」
そう言って電話を切ると、着信履歴に母から3件、
妹からメールが1件入っていた。みんなありがとう。
すぐに地下鉄に飛び乗って、自宅と実家の近くの駅で降りると、
外には何と甥と妹が待っていた。
こんな感激はもう生涯ないかもしれないと思ったほど嬉しかった。
妹はとにかく僕が死ぬことを恐れていた。
おそらくまだ幼い甥にショックを与えたくない気持ちもあるだろう。
それ以上に日曜日にくれたメールのように、
家族の誰かが欠けることだけは絶対に避けたかったのだ。
忙しい中、妹が僕のことを気遣ってくれたことに本当に感動した。

「いやぁ、無事に帰って来て良かった」
実家ではみんなが一安心といった表情だった。
それほど僕は神妙な面持ちで朝に実家を立ち去ったのだろうか、
と思えるほど、全員が心から心配していたのだ。
おまけに午前中で終わるだろうと思っていた話も
長時間の説得により、こんな時間になってしまったのだから、
時間的に心配するのは最もなことだった。
帰りに立ち寄ることを約束していただけに、
僕が帰りが遅いとおそいということは不測の事態が考えられたのだ。
僕は昼食が遅かったので、夕食をいただくことは固辞した。
それでも実家にいるとどこよりも落ち着いたし、時折涙は見せたものの、
それは家族の優しさに感動しての涙であって、悲しい涙ではなかったし、
おまけに幼い6歳の甥も僕に気遣ってか、
声をかけることを躊躇ってくれたいた。
「父が心配してるかもしれないから」と妹が電話を促し、
僕は心配をかけて済まないことを告げると、
父はやはり父らしく、「次、頑張れよ」と言ってくれた。
その言葉を聞いてまた泣いてしまった。
僕は今日どれだけの涙をどういった意味において流したのだろう。
振返ると朝から主に感動の涙ばかりのような気がした。

徐々に精神状態も平静を取り戻したのを機に、
9時に実家に挨拶をして寝不足の彼女を迎えに行こうと一旦自宅に戻った。
すると彼女はすでに4時に早退して帰宅していた。
何故か優しく接してくれる彼女に驚きを隠せなかった。
「よかったね」という言葉の意味することが初めはわからなかったが、
それはきっと僕がまた地獄のような日々に疲弊するのを見なくて済んだという
彼女自身の安心から出たことばなのだろいうと後で解釈した。
お腹が空いていたが、納豆ご飯とところてんと食パンという粗食で済ませた。
そして居間の照明をすべて消して、窓を全開にし涼しい夜風に2人であたった。
それから少しのふれあいが始まり、最終的にはまた彼女のヘルプで
僕は何とも言えない幸福感に包まれながら眠ることができた。

僕はこれからはもう無理をしないことを決めた。
自分がやりたいことはさておき、自分のできることを優先し、
利益よりも時間、会社よりも自分を守ることに決めた。
時間のはっきりした職業でストレスのない社会生活を送る。
そうしないことには僕の病気もよくならないはずだから。












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